シドニー・サイムについて
 
                未谷 おと





 

 
荒俣宏の編集によるダンセイニの短編集を紐 解いた方はサイムの幻想挿絵を見る機会を得ており、それ故に日本のダンセイニアンはアメリカの彼らよりもサイムとダンセイニの関係を良くご存じのはずだ。 海外ではその関係はほとんど無視されているに等しい状況であり、省みられることもない。リン・カーターの語るダンセイニ像にはサイムは存在しなかったし、 ラブクラフト研究で著名なJ・T・ヨシも僅かに何編かの短編がスケッチを基にして構成されたと指摘したに過ぎなかった。

 しかし日本には無限の好奇心を持つ荒俣宏がいて、少しの遠慮もなくこう云ってのける。「サイムの挿絵は、ダンセイニの抱いたイマジネーションを絵画というもう一つの形式に移し得た唯一の例だろう。(中略)……作品のその挿絵が理想的な補完関係を作り上げた稀な例である」

幸い、近年の世紀末ブームに乗って幻想挿絵作家ビアズリーの展覧会が開催され、その影響下にある作家の紹介を行う際にサイムも取り上げられた。少しばかりの資料からであるが、その生涯を追ってみたいと思う。
 
 アイルランドのダンセイニ城に訪問した荒俣宏は我らがダンセイニの息子ランドール・プラケットが「サイム」と発音したのを聞いたと云う。このエピソードに 基づき、我々はSimeを「サイム」と発音する。
 シドニー・ハーバート・サイム(Sidney Herbert Sime)は筆名をS・H・サイム(S.H.Sime)といい、1867年にマンチェスターに生まれた。少年時代の五年間はヨークシャーの常闇の炭鉱で過 ごした。この炭鉱時代に厳しい労働の合間をぬって奇妙な化け物や邪悪な人物の稚拙な絵を書き独力で画力を育てたのである。サイムは生まれつき空想的資質を 持っており、暗闇の中で視覚的創造力を高めていた。

 炭鉱を辞めて(脱走したという説もある)、最初サイムは貧乏な画家志望の若者がしかたなく行ったように看板のペンキ塗りをしていたが、そのうちにリヴァ プール美術学校に通って、まともな絵画の勉強を始めた。この時、リヴァプール美術館でラファエル前派の絵画を模写し、影響を受けている。ラファエロ前派と はアール・ヌーヴォーに始まる美術運動であり、それまでの型にはまった表現を抜け出そうとするものである。その名は画家ラファエロ以前の画風を最良として いたことが元になっている。1880年代の間の彼は雑誌類に投稿して腕を磨いている。

 サイムがロンドンに出たのは26歳(1893年)の時で、芸術家として立身しようとしていた。一九世紀後半の英国ではシャーロック・ホームズが連載され ていた「ストランドマガジン」や世紀末画家ビアズリーも描いていた「ペル・メル・ガゼット」を始めとする文芸大衆誌の創刊が盛んに行われていた。そこでは カラー印刷で美しい絵画が印刷されていたのだ。サイムは収入を得るためこれらの雑誌群にイラストを提供していた。まず、「ピック・ミー・アップ」を皮切り に「アイドラー」、「ユニコーン」等に関わった。この前後サイムは精力的に風刺漫画を描いていた。比較的人気のあった「亡霊」シリーズなどは掲載誌を変更 しても続いている。

 1897年からは『ユリイカ』の編集の携わり、ビアズリーの影響を受けた図版を発表している。具体的には不気味なイメージや線の効果的な用い 方、入り組んだペンの線、シンプルでありながら現実感のある人物像などである。ビアズリーは、1998年に25歳で病死した若きイラストレーターである。 彼は、マロリーの『アーサー王の死』やオスカー・ワイルドの『サロメ』に印象的で不気味な挿絵を描き、一躍時代の寵児となり、文壇を賑わしたが、ワイルド が投獄されてからは時代にも大衆にも見放され、寂しい晩年を送った。しかしその影響力はしばらくの間クリエイティヴな仕事を行う作家たちに影を落とした。 サイムも例外ではなかったのである。ここでついでに浮世絵の影響についても言及しておくべきだろう。浮世絵の同時代に与えた影響は二次元で描かれる絵画の 想像力の威力であった。伝統的に三次元の地味な色合いの絵画が主流であった欧州に華やかな色彩と平面的な絵画を描かせることに成功したのだ。アール・ヌー ヴォーと呼ばれる美術運動も浮世絵をきっかけにして成立した。サイムもやはり例外ではなく、直接的間接的に強い影響を受けている。
 年明けの1898年に親族の財産を受け継いて、多少の余裕も出てきたサイムは、「アイドラー」を買い取った。彼はデカダンとゴシックの雑誌を 目指し古めかしい暗黒のイメージを読者に提供しようとした。目標としたのはデカダンの必携書である。この年の3月にビアズリーの死亡が静かにロンドン伝え られて、サイムは心理上の信奉者を失い、より暗い幻想に近づいていったのも原因であろう。もしかしたらサイムはこのイエローブックの後継誌によってビアズ リーを追悼しようとしたのかも知れない。しかし、この「アイドラー」の冒険は失敗し、この雑誌を売り払う事になる。たしかに1894年に世紀末文芸誌の代 表「イエロー・ブック」が刊行を決断し、究めた退廃を大衆に送り込んで成功してはいたが、保守層の反発は恐るべきものだったことを覚えて置いてほしい。

 99年から1901年の間には「バタフライ」誌に寄稿し、ここでサイムは批評家に絶賛を浴びる。「ビアズリーはいつまでも白黒挿絵の新しき巨 匠でありグロテスク派の首領であり続けるだろうが、他方でサイムはビアズリーが到底敵わない特質を持っている。サイムのあらゆる作品の背後には、人生の計 り知れなさを実感している人間に特有の並外れた感覚がある。サイムが英国の最も偉大な白黒画家の一人になることを予言するのに、偉大な予言者をつれてくる 必要はない」
 やがて、サイムは雑誌の編集者としても挿絵画家としても行き詰まりを見せる。一九一〇年までにはあらゆる定期刊行物に反感を抱くようになった。「出版な るものの存在しうる最悪の形態、それが雑誌だ。ああしたものはみんな、偏狭なブルジュア根性をこねて作った神にも見放されたスポンジ・ケーキだ」とまで 云ってのけ、若い挿絵画家に警告している。しかし1920年代までこうした雑誌に挿絵を提供し続け、生計をたてている。

 挿絵作家としてのサイムのスタートは『ペガーナの神々』から始まる。サイムを雑誌から救い出したのは我らがダンセイニであった。以前より雑誌などでサイ ムの挿絵を見てダンセイニは何か感じるものを持っていた。1905年、出版社から「ペガーナの神々」に使う挿絵画家を聞かれた時のダンセイニの返事は良く 知られていることと思う。
「考えられる挿絵画家としてはギュスターヴ・ドレかシドニー・サイム」とダンセイニは云ったのである。「考えてみれてば二人の画風は全然似ていないのであるが、ドレはすでに死んでいることもあって、事実上はシームを単独指名したも同じだった」と荒俣宏は述べた。
 二人はこのまま、30年代まで組んで創作を続け、死ぬまで友情を存続させた。
  1908年に発行の『ヴェレランの剣』と1912年発行の『驚異の書』はサイムが雑誌などに発表したイラストにダンセイニが物語をつけると云う珍しい形で 作られた物語集である。これは絶望的な冒険に赴く勇者の物語で盗賊や商人、戦士といった「挑戦の職業」を主人公としている。

 1911年には『ペガーナの神々』を再販する。最初の出版物にダンセイニはよほどの思い入れがあったようで、この再販にいたってはサイムと共同のTHE PEGANA PRESSというスタジオを起こしてまで発行している。ラフな造本で大きさはA5ぐらい。表紙には太鼓の神スカアルがデザインされ、必要な文字以外はまっ たく印刷されていない。限定500部。

 1922年にはダンセイニとサイムの共同で限定250部の豪華版『時と神々』の発行も行われた。私は一度だけだがこの本を見たことがある。1998年3 月に奈良そごう美術館で行われた『ビアズリーと世紀末展』に出かけた友人と私は幸運にもこの本が出展されており、ガラスを隔ててではあるが出会うことと なったのである。それはかなりの大きさでA4版かB5版はあった。私は私と本を隔てるガラスに手を震わせながら近づいたのを覚えている。私は本物のダンセ イニを垣間見たのである。二人は豪華版「時と神々」に釘付けになり、「すばらしい……」とか、「感動だ……」と呟きながら何度もため息を付いた。なんとか この本を所有物に出来ないかと犯罪の企みを練ったことはここだけの話にしておこう。この展覧会に来て、ビアズリーやリケッツを無視して、シドニー・サイム の展示場所を探したのは私たちだけではあるまい。

 1922年の『影の谷物語』、1924年の『エルフランドの王女』、1936年の『ディーン・スタンリーとの対話』には戦争による出版状況の悪さのせいで、口絵を一枚付けるに止まった。ことに『影の谷物語』は荒俣宏が最初に見たサイムの挿絵本だった。
 サイムの挿絵がダンセイニの物語に適合したのは、そこに隠れることもない死の幻視の為ではないだろうか。ダンセイニの物語には死すら脅えてしまう程の絶望があったが、サイムはそれを伝える線と「東洋風のエキゾチズム」を持っていた。
 一方、サイムはアーサー・マッケンやウィリアム・ホープ・ホジスンとも組んで、挿絵本を創り、幻想文学に寄与している。マッケンの『夢の丘』にダンセイニが序文を書き、「二度と読みたくない」といったエピソードもあるが、案外サイムを通じてそうなったのかもしれない。

 第一次大戦後のサイムは段階を追って覇気を失っていく。その頃にアーサー・ラッカムなどが描いた凝った色彩の挿絵本が流行った結果、モノクロを主流とす るサイムの画風は世間に対してまったくアピールする処が無くなったのである。荒俣宏は「第一次対戦後から物質的成功に見放されたことを悲観して、サイムは 影に引きこもりがちとなり……」と伝えてくれる。

 晩年のサイムは殆ど完全な隠遁者となり、ダンセイニ以外には会うことすらしない偏屈を通したという。ばらまいたマッチから発想した繊細なイラ ストを描き、カバラなどの神秘主義に近づいたり、電気の実験をしたり、望遠鏡を使って星の観察をしている。ある時には科学の実験中に家の屋根を吹き飛ばし てもいる。
 サイムは一九四一年、サリー州ウォープルズドンで没する。ダンセイニは「友人サイムとの悲しい死別」を体験する。

 現在、サイムの原画のほとんどはアイルランドのミーズ州にあるダンセイニ城に保管されている。ほかにはウォープルズドンの小さな美術館でその幻 想を覗くことが出来る。この他は公共、私有問わず、収蔵庫の奥にしまい込まれており、滅多なことでは我々の目に触れることはないだろう。

 荒俣宏はダンセイニ城に訪問した際、第一九代ダンセイニ男爵にサイムのことをこう説明されている。「第一八代の友人だった挿絵画家の作品での、このオリエンタル趣味はまさしく先代の影響じゃ」

 サイムの名は今ではダンセイニの本に挿絵を描いた作家としてしか知られていないに等しい。この小さな文章で彼を知ったものたちは少なくとも今世紀初頭の イギリスの代表的な挿絵画家であったことを覚えておき、何かの際にサイムの名が飛び出てきたら、ここに書いてあったことを話して欲しい。それがサイムに とって一番喜ばしいことではないだろうか。